「信仰を持つ尊さ」というものに中年になってようやく気が付きました。

 

どうも。へっぽこフリーライターでFPの中村イオラ(@504_479)です。

今日は本業である社畜活動の完全休養日。

たまにはいいもんですね〜、ゆっくりとできて。

お陰さまで心身ともにリフレッシュできでます。

また、ゆったりと思うがままに考え事ができて、とても充実した一日となりました。

時間が有り余るもんだから色々なことを思いふけっていたんですけど、以下のようなことを考えていたら、考え事が止まらなくなってしまいましたよ。

  • 俺っていつまで生き延びれるんだろ…。
  • 俺の死生観って定まってないよな…。
  • 俺はなんのためにこの世に生を受け、生きているんだろうか…。
  • 確実に死が近づいてきてるけど、具体的に直面したらどうやってその恐怖と向き合おうかな…。

…etc

この頃将来に対する不安感がものすごいんです。たまに何かに襲われているような恐怖感に見舞われたりして、精神的にキツくなったりしてるんですよね。

acousticsoul215 / Pixabay

なんでこんな恐怖心に見舞われるのか、と自分なりに考えたんですが、生死に対する思考の整理がまったくできていないからだと気が付いたんです。

「俺はこうやって死んでいこう。」

「こうやって死を迎えてやろう。」

「死の向こう側に待ち受けるものの存在を信じるってどうなんだろ。」

こういった死生観の軸が定まっていないため、自分自身が苦しいんだろうな〜、としみじみと実感してしまいました。

どうしたらこれらのことを克服できるのだろうか。

打開策を模索していたわけですが、こう考えてもみました。

そこは素直に神の存在に頼ってもいいのではないか

と。

今まで生きてきた中で、自分における宗教の位置付けって正直とても低いものでした。

宗教とかってどこか胡散臭さみたいなものを感じたり、それを信じる自分自身の後ろめたさみたいなものがあったりと、どうしても前向きに捉えられなかったんです。

イオラ
宗教?ありえんわ〜(笑)怖い怖い(笑)
イオラ
そんなのを信じる奴は心が弱いイカれた奴だ。

みたいな。

いま思えば、単に自分の思考が若造だったから、と言われても仕方がありませんけどね。笑

歳を重ね、すっかり中年になったいまは、死までの残りの人生をどのように生きていくのかの道しるべとして、「信仰を持つ」、という方法もかなり有効なのではないか、と自然と思うようになったのです。

この、自然と思うようになったという点がとても大事で、人に勧められたり、洗脳を受けたりというアプローチではなく、自分の心の中が自然と湧き出すようにそのような思考に覆われて好感が持てたことがとても嬉しかったのです

自分から「信仰を持ちたくなった。」というのであれば、後ろめたさはそこにはない。あとは自分に素直になるだけなので、流れに身を任せておけばいいと思いました。

MichaelGaida / Pixabay

もう一つ信仰を持ちたくなった要因があります。

信仰を持っている多くの方々の存在です。

彼らを見ていると、己の人生をものすごく丁寧にそしてしっかりと歩んでいるように見えるんです。

地の塩世の光となって眩しく生きているそのような方々には羨望の眼差しすらあります。すごく礼儀正しく心優しい素敵な方々が多い。自分も彼らのように、余裕の漂うおおらかな人間になりたいな、と思ったわけです。

人格形成の一環としても神の導き、教えに従う生き方もいいのかも、とも思いました。

Hans / Pixabay

というわけで、日曜日の御ミサに参列しに、またカトリック教会にでも通ってみようかな〜、と思った会社奴隷解放日の昼下がりでした。

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